雑音日和

教祖になるのが夢です。

これからの企みと、私の旅について

 今に今にと思いながら、長らく記事を更新していなかった。まずはそこを謝らせてください。すみませんでした。

 

 いつも、何か書こう!と思い、考えをあたためている間にどうでも良くなってしまい、そして半年が経過している。個人的には半年は結構、長かった。

 

 それで、ここに戻ってきたのは、このブログの方向性を転換する時期に入ったからである。

 

 実は、もともと旅行記のようなものを書いてみたいという思いがあった。遠くに行って何かを見て感じたことを、吹きっさらしの脳内にとどめておくのではなく、世界のどこかに残しておけたらな、といった具合だ。

 

 だが、面白い旅という旅を、最近はそれほどたくさんしているというわけでもなく、細々したことに忙殺されてとても記事にまとめられそうにもなかったので、何も書けていなかった。

 

 しばらくお金を片手間に貯めながら、迷える子羊のような日々を送っていたのだが、ついに私はワーホリビザを手に入れた。

 

 ……なので、スペインにしばらく行ってこようと思います。

 

 

 

 さてところで、まずは旅に出ようと思う心境から書いていきたいと思う。もちろん旅が好きだからというか、好奇心、というのが第一であるのは間違いない。

 

 だが日々考えを深めていく中で、それだけにとどまらないものがいろいろと出てくる。

 

 後付けの考えなので、正確には「旅に出た方がいいと考えた理由」になるのだろう。「なにもそこまでして自分のやることを正当化しなくていいから、どこでも勝手に行ってきなさい」と言われてしまうかもしれないけれど。

 

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 人と会ったりすることは楽しい。が、最近そのあとで、底の方から鵺のようなものじわじわと責め立ててくる。

 

 「自分、こんなんでいいのかなぁ」

 

 浜辺に築き上げた砂の城が、波に洗われてまっさらになるような感覚になることがある。

 

 もちろんこれは気にしすぎで、私のことをわざわざ気にとめるほど暇な人などいないのは承知している。

 

 ただ、砂の城……「自分の世界」というのはもろいもの。もろい上に、常に外圧に晒されており、簡単に破壊されてしまう。

 

 昔からよく「自分の世界に入っている」と言われて育ってきた自覚がある。多分、いい意味でも悪い意味でも言っていない人も多いと思うが、その「自分の世界」は生きていく上で、多くの場合邪魔になる。

 

 子どもならまだしも、大人がこれを意地でも守ろうとするのは、明日の飯に関わる問題になってくる。

 

 なので、捨ててしまったほうが面倒なことにならずに済むのだろう。でも逆にこれをもう少しきわめてみたいという、無益な誘惑がある。

 

 さっきから「自分の世界」「自分の世界」ってなんのことだと思うかもしれない。私にもよくわからないが、そこに何か道のようなものが見えている。

 

 きわめるってなんだ。目の前にあらわれたものをいろいろな感覚で感じとり、時間をかけて思考する。今いえるのはそういうことかと思う。

 

 なので、遠くにいきながら、その実は内を向いているのかもしれない。引きこもりになる手段として、誰も知らないところに行くことを選んでみた。

 

 

 

 とまぁ、要は見たもの感じたことをあれこれ綴っていきたいと思うので、どうぞお付き合いくださいませ。