雑音日和

教祖になるのが夢です。

人間観察日和

 カフェが好きだ。カフェのテーブルについて気のむくままに勉強や読書をする。派手な楽しみでは決してないが、それは止まり木のようなものだ。スサー。

 

 ただ勉強がしたいだけなら図書館にでも行けばいい。しかし種種雑多な音や動きの中に没入して、その感覚を楽しんでいる。

 

 カフェが、“関係の十字路”であるからだ。

 

 活字の泉から顔を上げると、いろいろな人間の関係がみえてくる。人生の旅の途中経過。持てる知識の交易……。人と人との会話があって、カフェが動いているのだ。

 

 名前も知らない人たちの話すのを聞いて、彼らの人生観に思いを巡らせる。自分の出会ってきたこととは色みの違った、どこかの誰かの、かけがえのない叙事詩の断片。

 

 隠れ家的なカフェは独創的な魅力が詰まっていてまたいいが、会話を聞きたいときはチェーン店に行く。数羽の鳥が止まってはまた去っていくような、解放感のなかにこそ、人生も日常も垣間見える。

 

 私に行きつけのカフェなどはない。同じ止まり木に止まりつづけて、帰るところができてしまうのは、なぜだかつまらなく感じてしまう。

 

 名もない枝から名もない枝へと飛びつづけるように、気のむくところで物語を集める。

 

 思い思いのことができるカフェでは、本当にいろいろな人がいる。人間の意思というものが脆弱だからなのかもしれない。

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 店内の雰囲気と一杯のコーヒーには、人間の本性をおかしくさせる何かが含まれている。

 

 いや、おかしくさせるのではなくて、本来の性質を応用して軌道修正しているだけなのだろう。もともと生まれもったバグにつけ込んで、ポテンシャルを異常に高める。

 

 私は、一人で何か思い立って始めようとするときにもコーヒーを飲みに行く。臆病で怠惰な人間だから、何か新しく勉強しようだとか、新しく始めてみたいことを考えたりするときにはカフェの作用が欠かせない。

 

 もしかしたら、隣の席に座ってタブレットで一生懸命何かを描いている人も、そういうことを理解してやって来ているのかもしれない。

 

 本性をうまく操作して望ましいと思う方向に向かおうとする人達がカフェに集まってくる。思えばこうして保険会社もフランス革命も世界に名を轟かせる文学作品も生まれたのではなかったか。

 

 …と、そこまで考えると、カフェで観察できる名前も知らない人たちは、店から一歩出たら怠惰な本性を見せているのかもしれない。

 

 しかしそうだとしても、思い思いの何かに、自由に向き合う姿は人間の最も人間らしい姿でもある。

 

 そういう彼らから、人知れず生きるエネルギーをもらうのもまた趣。

 

 本日のコーヒーからは、微かにハチミツのような甘さがする。