雑音日和

教祖になるのが夢です。

衝動の意味

 この国にやってきてから二ヶ月と、ちょっとが過ぎた。語学学校の二ヶ月は長い。あるとき家族のようだと思っていた人々は、この地球のどこか、手を伸ばしても届かないようなところへと消えていく。

 

 そんなことを繰り返しているうちに、季節は変わり、周りにいる人の顔ぶれも変わり、また出かけるところも変わっている。

 

 それで時折、ほんの二ヶ月前に一緒だった人たちのこととか、その頃よく行っていた場所のことを思い出しては、遠い昔の思い出のように感じる。

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 こういうことを思うとき、正確な時間は問題にならないんだろう。一日が24時間で、一ヶ月が大体30日で…とか言う客観的な時間は、単に人々が足並みを揃えるために作った仮構で、本当は一人一人、違う時間の歩みの中で生きているのかもしれない。

 

 川のように、上から下へ一気に流れ落ちることもあれば、緩やかになることだってある。時に他人の時と合流するかもしれないけれど、やっぱり誰とも共有できない、ただ一人のための流れに生きている。 

 

 今の生活がずっと続くわけではないと思うと、一瞬一瞬を胸の内側に焼き付けるように生きなければいけないように思えてくる。

 

 私はここでは、人と共有できる言語を多く持たない。だから、本当はその、家族のようだった人たちの素性をよく知らないのかもしれない。

 

 それでも、私たちを親密にしてくれるものがどこかにあるように思えて。

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 日本にいる時から、よくお酒を飲んで音楽を聴くと、私は踊らずにはいられなくなる時がある。何か内側から溢れてくるものがあって、じっとしているよりむしろ、動いている方が自然だと感じることがある。

 

 この衝動は一体全体どこから来るのか。というかあなたたちどう思います?こういうとき踊りたいとは思いませんか??

 

 それで半ば無意識的に踊ってみたりするが、わき目もふらずに踊り出す人というのは、そんなに私の周りにいなかったような気もする。

 

 ただの酔っ払いの、取るに足らない奇行なんだろうか、そんなふうに思ったりしたこともある。

 

 日本は……、いやそういう表現で、よくも考えず大雑把な括りを与えるのはとても好きになれない。そう、自分の住んでいた世界では、あまり「踊る」という行為は開かれたものではなかったように思える。

 

 「踊る」かどうかというより、まず先に「踊れる」かどうか、だったのかな。ダンスをするのには特別な素養が必要で、限られた踊り手のそれだけが、真に踊りといえるのだ…。そう考えていたところが、あったように思える。

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 それでも私は、相変わらず踊ってしまう。そうもちろん住んでいる国が変わっても。

 

 何の違和感もない光景の中に、ふと気づいたことがある。音楽に合わせて、同じように思い思いの動きをしている人たちがたくさんいる。私にとってはそれが嬉しかった。

 

 よく考えてみれば、時折「踊りに行こう」というふうに誘われることがあるが、以前であれば絶対にあり得なかった。

 

 本当は、同じように踊りたくなる人はたくさんいるのではないか、そんな独りよがりな確信をもとに、「踊る」ということについて考えてみたい。

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 踊りたい衝動。これはどこから来るのだろう。言葉がなくても、踊ることはできる。私にとってはそのことが、大きな意味を持っていると思う。

 

 言葉では十分に自分の気持ちを表現できないときは、動けばいい。嬉しいとか悲しいとか、そういうことは多分伝わるはずだから。

 

 ちょうどここアンダルシアは、フラメンコで有名だ。フラメンコで私が最も惹かれるところに、咽び泣くような表現がある。フラメンコは流浪の民であるヒターノ(ジプシー)に起源をもつと言われる。民族の辿ってきた苦難の歴史と道のりが、歌や踊りで語られているようにも見える。

 

 踊りは簡単な言語として機能する。言葉を持たない動物でも、踊りができるものもいる。それは大抵なにかの意味をなしていて、求愛や権利の主張に使われる。誰がどうみても、ある種のコミュニケーションだと思う。

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 加えて、ただ踊るためならば言葉はいらないということは、同時に、踊りは言葉とは別の性質を持っていることを意味する。

 

 宗教的な踊りというのは、世界中に存在している。いやむしろ、本来踊りは神聖な儀式だったとさえ言われている。踊りは時に、神秘的な性質を帯びることがあるのだ。

 

 理性は言葉によって培われる。では「言葉を介さない」という性質を持つ踊りは、理性を超越した、言葉では説明できない、神秘的な感覚を表すのにちょうどいいようにも思える。

 

 人間生きていれば、考えたってどうしようもない悩みに直面する。理性が答えを出さない時は、祈るように踊ったほうが、まだ希望はあるのかもしれない。

 

 それにしてもこっちの人たちは、何の恥ずかしげもなく大きな声で爆笑するし、カラオケは個室ではなく、バーのみんなの前で歌う。本当に、余計な他人の心配なんかしていないんだろうな。