雑音日和

教祖になるのが夢です。

「無」を「有」にする人たち

 創造神は、案外そこらじゅうに溢れている。もしかしたらこれを読んでいるあなたもそうなのかもしれない。

 

 はるか昔、古代ギリシャデモクリトスは、原子の一切存在しない空間としての“空虚”について考えた。また古代のインドでは、数学上での無を表す“ゼロ”の概念が生み出された。

 

 そう考えると、無の存在を可視化するのは壮大な営みに見えるが、ひょんな能力不足からそれは始まったりする。

 

 私の会話力がないせいで、「何か面白い話ないの?」と話を振られてしまうことがある。面白い話がないから沈黙するのだが、一応聞いてくれる優しい人たちが時々いる。そんな時はどうするかというと、具体的にはよく覚えていないが、きっと基本的には話すことについて話しているような気がする。

 

 それは、「面白い話ってなんですか」みたいな話である。会話が続くかは別として、これで一応会話が生まれている。無会話状態から会話が生まれているのである。

 

 そして、沈黙をつくることに関するレベルがお互いに高すぎる場合、「会話がない」ということについて会話することができる。「沈黙を作ってしまいそうな時にどんな会話で切り抜けるか」という問答や、「会話力のなさ」についての考察などがはじまっている。そうなってくるといよいよ人間のしぶとさと、話すことへの執念の深さに気づかざるを得なくなる。

 

 使えそうなものが何もないときは“無”があると考える。……などというどこかの武術家が弟子に伝授していそうな発想を、少なくない数の人たちがやってのけている。そして彼らの多くは「コミュ症」や「会話が得意ではない人間」を名乗っているが、“無”の存在を認識したとき、確かに中身のある会話をしているのである。そういえば無印良品は「無印」という印をつくり、ブランドイメージ、無印らしさとでもいうべきものも確立している。人の職業をいうときも、一つのカテゴリーとして「無職」がある。

 

 そもそも「無い」ということが「存在している」と考えるとき、「無い」があるということになってしまい、“無”も“有”のひとつという扱いになってしまう。そうなると本来の意味での“無”は存在しないのでは………?

 

 何か書きたかったのだが、今これといって話題のない私は、無から有を創造する人たちにならって“無”についての話をしてみたが、ここまでが限界のようだ。私には創造神の資質はそこまでなかったらしい。ん?そもそもその資質っていうのはどこから来r(以下ループ