雑音日和

教祖になるのが夢です。

ひるまひる

 気づけば三月ももう下旬に差し掛かっているようである。私はというと、海外で一つの街に身を落ち着けようと試みたものの、さっそくやることがなくなり、退屈と手詰まり感とホームシックの入り混じった、いわゆる「どうしようもない」状態に陥ったため、スペインに入って半年ほど経ったところで早めにワーホリを切り上げた。それでも余った予算を諸国漫遊しながら帰途につくために使ったので、少なくとも予算分は生きたと言ってもいいと思う。

 家に帰るや否や、またその「どうしようもない」状態に落ち着いたので、束の間の中だるみの時間の中にいる。今年はいまいち冬が明けきらない気がするが、三月のゆるい気候はその中だるみにとって心地いい。出会いと別れの季節であって、終わりと始まりの季節。一度死んだ魂が、洗い清められてまた次の肉体に入っていく、そんなイメージを感じさせてくれる。

 

 長年この国で生きていると、桜の開花を記号として無意識のなかに持つことになる。例えば入学式とか卒業式の象徴にされていて、始まりと終わりを飾るのだから、この上なくめでたくて特別な花である。

 

 色彩のうすい冬という季節をこえて、それだけで景色を一変させるほどの存在感と鮮やかさ。それが終わりと始まりの時期なのだから、なにか特別な祝福であるに違いない。そうやって集合意識がつくられてきたのかもしれない。

 先日、一足先に開花した河津桜を見に行ったが、確かにあの薄紅色は、「一巡した」という確かな感覚をもたらしてくれた。そこから視線を下の方に動かすと、訪れた平和を謳歌するような歓喜に満ちた人々の姿。めでたしめでたし……。

 

 しかしそれにも飽き足らず、視線を一つの株へと、一つの花へと向けてみる。注視の恰好をとる。みずみずしい新緑色の若葉がのぞいている。桜の花もいいけれど、葉桜もよく見ればすがすがしい。そしてそれこそ始まりを感じさせてくれるような、若い芽だった。

 するとたちまち私はふしぎな感覚に陥った。いままで始まりの花と信じていたピンク色の後を追う発色のいい緑。彼もまた、何かの始まりを知らせているのではないか。起承転結という使い古された展開の枠には収まりきらず、同じ要素が二度反復した混乱。どちらが本当の「始まり」なのか。

 

 ではこの木はこれからどうなっていくのだろう。成熟した緑は花の咲いたあとを埋め尽くし、実をつけ、紅葉し、なにもなくなったあとで再び開花を迎える。植物視点で見れば、緑の葉を広げて光合成をし力を蓄えるのはまさに起と承にあたり、その意味では始まりに相当するのはむしろこっちの葉桜なのかもしれない。

 しかし花をつける前に彼らは一度死んでいる。すなわち終わっているのだ。こうして終点を冬と定めて逆算すれば、始まりは開花でないと説明がつかない。

 一方花を咲かせるのはそもそも恋の季節なのだから、クライマックスに持っていきたいのが人情だ。厳寒を忍んだあと、ハッピーエンドでこの物語は終わる。

 でもそのあとで実をつけるということは、次の世代につないでいく意図が感じられるから、ひょっとしたらサクランボの夏をもって終わるのだろうか……。

 

 もちろん、こういった環状のものに始点と終点を想定するということ自体が、ナンセンスそのものである。それでも、桜の一生を人間都合の枠内に収めようとすると、おかしなことになってしまった感じがする。

 

 「宇宙無境界仮説」というものがあるらしい。私にはよく理解できなかったので、ググった方が早いと思われ説明は省くが、そもそも「始まり」と「終わり」という概念自体がヒトの作った幻想なのかもしれない。

 環状のものということで、一日についてはどうだろう。わたしたちの感覚は、朝をもって一日の始まりとし、夜をもって終わりとする。明らかにこれは、大抵の人間は朝起きて昼間に活動し、夜寝るというサイクルで生きていることに由来する。

 

 意識があって活動しているのは昼間起きている間なのだから、その起きている時間を本地として、始まりから終わりへと向かう時間を設定する。これは一見妥当に思える。しかしよく考えればこれも自分(たち)勝手じゃないか、と私は感じてしまった。

 

 なぜなら、寝ている人間はわたしたちであってわたしたちではないのだから。

 今これを書いている私も、読んでいるあなた方も、まぎれもなく起きている人間である。さらにはものを考え、言葉を話し、他人と意思疎通を図っているのはすべて起きている人間。

 

 眠っている人間に口はなく、せいぜい夢を見て寝言を言っているくらいである。だから彼らのことは無視するしかない。もしも寝ている人間と意思疎通ができたとしたら、起きている間には想像もつかなかったようなことを言っているかもしれないのに。

 

 そう、この世界は起きている人間の都合で動いている。だから、睡眠時間を削って褒められることさえある。それどころか、あんまり寝すぎると怠惰のレッテルを張られる。

 

 しかし客観的に見れば、起きていようが眠っていようがその人は等しく存在しているのだから、別にどちらを中心においてもいいはずだ。眠っている状態こそが、むしろ生物の本来の姿であった、という研究さえあるらしい。

 と、まぁ、だからと言って、私には「睡眠時間を犠牲にするな!」とか、「たとえ一生寝て過ごしたとしても悪かないだろ!起きている人と寝ている人の価値は平等だ!」という抗議の意図はない。

 

 でも、もしも起きている人と寝ている人の立場を逆転させて世界を見てみれば、何か違ったものが見えてくる気がする。

 暗闇の中で旅をしていた。ただ暗闇があるだけでなく、ろうそくみたいな光の中に入っていくことがある。そこでは、昼間無造作に入ってきた記号たちが、組み立てられてまた再生される。それは気づけば人の姿や景色になって、朧げだがこの目には見えていた。よく覚えていないけれど、昼間はもっと輪郭がはっきりしていたように思う。でもきっと、それらは本当はそんな鮮明な姿をしているわけではなかったのだろう。昼間は全く接点のない別人に見えた二人も、寝ているわたしからしたら実は同一人物だったのだ。性格がどことなく似ているのはたぶん、そういうことだろう。

 

 しばらくは平和な場面が続いたと思ったが、夢はおぞましい場面に切り替わっていて、絶体絶命の脅威を感じていた。いやむしろ恐怖感の方が先だっただろうか。全身を巡る血が速い。とにかくこのままではまずいことだけはわかる。きっと死ぬ。世界が終わる。逃げようと思ったけれど体が動いてくれない。できることといえば、もう後戻りのできなくなった運命を受け入れて、できる限り安らかに死ねる態勢をとるだけだろう……。

 雷かなんかに打たれたかのような突発的な恐怖は数秒前の過去のものとなって、目の前の事態を画面に映ったはりぼてのようなただの出来事として認識できるようになった。そして最後の一撃を食らうか食らわないかのうちに意識はとだえ、気づけば朝日の射したベッドの上にいた。どうやら夜の一生はここまでだったようである。また鮮明とした輪郭のある時間を、次の夜までしばらく生きなくてはならない。

 

 私たちは寝るために起きて活動する。そう、すべては今宵の安らかな眠りのために。朝起きてしっかり食べるのは、睡眠にも体力が必要だから。そして今日も仕事に向かう。快眠のためにはむしろ適度な運動が必要なのである。早く寝るために余計な仕事はせずに帰ろう。シャワーで体を温め、心地よくなったところに、快適な眠りのために整えておいたふかふかのベッドと、程よい高さの枕がある。生の根源のようなものに身をささげ、そして委ねるようにして、仰向けになれば朦朧としてくる思考。そして、再び、夜が、始まる……。第n夜…。

衝動の意味

 この国にやってきてから二ヶ月と、ちょっとが過ぎた。語学学校の二ヶ月は長い。あるとき家族のようだと思っていた人々は、この地球のどこか、手を伸ばしても届かないようなところへと消えていく。

 

 そんなことを繰り返しているうちに、季節は変わり、周りにいる人の顔ぶれも変わり、また出かけるところも変わっている。

 

 それで時折、ほんの二ヶ月前に一緒だった人たちのこととか、その頃よく行っていた場所のことを思い出しては、遠い昔の思い出のように感じる。

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 こういうことを思うとき、正確な時間は問題にならないんだろう。一日が24時間で、一ヶ月が大体30日で…とか言う客観的な時間は、単に人々が足並みを揃えるために作った仮構で、本当は一人一人、違う時間の歩みの中で生きているのかもしれない。

 

 川のように、上から下へ一気に流れ落ちることもあれば、緩やかになることだってある。時に他人の時と合流するかもしれないけれど、やっぱり誰とも共有できない、ただ一人のための流れに生きている。 

 

 今の生活がずっと続くわけではないと思うと、一瞬一瞬を胸の内側に焼き付けるように生きなければいけないように思えてくる。

 

 私はここでは、人と共有できる言語を多く持たない。だから、本当はその、家族のようだった人たちの素性をよく知らないのかもしれない。

 

 それでも、私たちを親密にしてくれるものがどこかにあるように思えて。

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 日本にいる時から、よくお酒を飲んで音楽を聴くと、私は踊らずにはいられなくなる時がある。何か内側から溢れてくるものがあって、じっとしているよりむしろ、動いている方が自然だと感じることがある。

 

 この衝動は一体全体どこから来るのか。というかあなたたちどう思います?こういうとき踊りたいとは思いませんか??

 

 それで半ば無意識的に踊ってみたりするが、わき目もふらずに踊り出す人というのは、そんなに私の周りにいなかったような気もする。

 

 ただの酔っ払いの、取るに足らない奇行なんだろうか、そんなふうに思ったりしたこともある。

 

 日本は……、いやそういう表現で、よくも考えず大雑把な括りを与えるのはとても好きになれない。そう、自分の住んでいた世界では、あまり「踊る」という行為は開かれたものではなかったように思える。

 

 「踊る」かどうかというより、まず先に「踊れる」かどうか、だったのかな。ダンスをするのには特別な素養が必要で、限られた踊り手のそれだけが、真に踊りといえるのだ…。そう考えていたところが、あったように思える。

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 それでも私は、相変わらず踊ってしまう。そうもちろん住んでいる国が変わっても。

 

 何の違和感もない光景の中に、ふと気づいたことがある。音楽に合わせて、同じように思い思いの動きをしている人たちがたくさんいる。私にとってはそれが嬉しかった。

 

 よく考えてみれば、時折「踊りに行こう」というふうに誘われることがあるが、以前であれば絶対にあり得なかった。

 

 本当は、同じように踊りたくなる人はたくさんいるのではないか、そんな独りよがりな確信をもとに、「踊る」ということについて考えてみたい。

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 踊りたい衝動。これはどこから来るのだろう。言葉がなくても、踊ることはできる。私にとってはそのことが、大きな意味を持っていると思う。

 

 言葉では十分に自分の気持ちを表現できないときは、動けばいい。嬉しいとか悲しいとか、そういうことは多分伝わるはずだから。

 

 ちょうどここアンダルシアは、フラメンコで有名だ。フラメンコで私が最も惹かれるところに、咽び泣くような表現がある。フラメンコは流浪の民であるヒターノ(ジプシー)に起源をもつと言われる。民族の辿ってきた苦難の歴史と道のりが、歌や踊りで語られているようにも見える。

 

 踊りは簡単な言語として機能する。言葉を持たない動物でも、踊りができるものもいる。それは大抵なにかの意味をなしていて、求愛や権利の主張に使われる。誰がどうみても、ある種のコミュニケーションだと思う。

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 加えて、ただ踊るためならば言葉はいらないということは、同時に、踊りは言葉とは別の性質を持っていることを意味する。

 

 宗教的な踊りというのは、世界中に存在している。いやむしろ、本来踊りは神聖な儀式だったとさえ言われている。踊りは時に、神秘的な性質を帯びることがあるのだ。

 

 理性は言葉によって培われる。では「言葉を介さない」という性質を持つ踊りは、理性を超越した、言葉では説明できない、神秘的な感覚を表すのにちょうどいいようにも思える。

 

 人間生きていれば、考えたってどうしようもない悩みに直面する。理性が答えを出さない時は、祈るように踊ったほうが、まだ希望はあるのかもしれない。

 

 それにしてもこっちの人たちは、何の恥ずかしげもなく大きな声で爆笑するし、カラオケは個室ではなく、バーのみんなの前で歌う。本当に、余計な他人の心配なんかしていないんだろうな。

二本棒のクエント

 グラナダに秋がやってきた。地中海地方の乾いていた空は、ときどき雲に覆われるようになった。40度近くの猛暑から、一気に10度ぐらい気温が下がってしまうものだから、逆に肌寒いくらいだ。

 

 店頭ではガスパチョやサルモレッホといった夏の風物詩たちが、我先にと各家庭に駆け込むようにして、安売りセールの赤い札を掲げている。バケーションで外に出ていた人々は、次々と日常に戻っていく。

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 最近、箸を使うようになった。ピソには箸がたった一膳しかない。それも東洋人は私しかいないので、多分ほぼ独占状態で使っているのだろう。炒め物をするときなんかは、どうしても箸じゃないとできないので、食べる前に使ってしまう。

 

 つまりその貴重な一膳は、「調理用」ということになり、食事用にはフォークとナイフ、スプーンで食べるしかない。日本語でレシピ検索をすると、ほとんど醤油を使った料理がヒットするので、必然的に日本食テイストになる。したがって、どうしてもお箸を使って食べたくなる。

 

 そんなこんなで、私は猛暑を乗り切るために、よくパスタに重曹を入れて、冷やし中華のようなものを作っていたのだが、箸で食べた夏の終わりの冷やし中華は最高だった。

 

 それからのこと。箸を調理に使ったあとで、それを洗ってまた食事に使うというのをやり始めた。あ、自分のを買った方が早いか。

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 それにしても、箸を使って食べるって、不思議な文化だと思う。時々私たちは日本食バルに行くのだが、豪快にもご飯の上にお箸をブッ刺して駄弁っている友達を、「まぁ普通はそうするよね〜」っていう目で見ていることがある。

 

 お箸の持ち方に興味を持った人には、「中指を真ん中に挟んでこうこう」という感じで、どの家庭でもオカンに厳しく言われるような言葉を再生している。

 

 そもそもどうして、あんな棒切れ二本でご飯を食べようなんて思ったんだろう。ナイフ、フォーク、スプーンだったら、形状からして「切り分ける」「つき刺す」「掬う」という用途がひと目で分かる。どう考えても合理的に設計されているのは、こっちの方だと思う。

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 昔の人の考えることは、やっぱりよくわからない。最初にお箸を使った人は、相当切羽詰まっていたのだろうか。食べ物があるのに、使えるものが棒切れだけだったとかね。でもそれだったらもう、いい加減手を使わないか普通は。

 

 究極的に混み行った状況でないと、こんな芸当を思いつくのはありえないと思う。私の想像力では到底追いつきそうにもない。

 

 しかし妙な形をしているにも関わらず、やっぱり一番手に馴染んでしまうチョップスティック。少なくとも日本人は、大体の食べ物をこの棒切れで食べることができる。しかも綺麗に食事ができるところが、気に入っているところだ。

 

 気になるなぁお箸の起源…。ムイラーロ。

オハラ

 ああまったく…どうしてこんなところにいるんだろう。

 

 金曜の夜、ディスコテカ(クラブ)で半ば夢うつつ、目はつぶったままで踊りながらそんなことを考えていた。

 

 左手のハイネケンは誰かが買ってくれたみたいだし、お金の心配はしなくてもいい。それなのに、「こんなんでいいのか」っていう、良心なのかナーバスなのか分からないモノに囚われている。

 

 というか、ここまできて何するつもりだったんだ自分は?何がしたかったんだ?少なくとも朝まで踊るために来たわけじゃないはずだが…。

 

 この旅に明確な目的はない。

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 8月15日は「聖母被昇天祭」ということで、スペインは祝日になっている。といっても学校が休みになっているだけで、どこか行くところがあるわけではない。

 

 そもそもこの国では日曜と祝日は一部を除いてお店は軒並み閉まっているから、休みが一日あったからといって、できることはあまりない。

 

 しかも夏の太陽は休まない。こちらに来て一ヶ月ほどになるが、一度も雨を経験していない。したがって猛暑の真昼間は、外に出たくない。

 

 一部海水浴に行っている仲間もいるが、今日はゆっくり休ませてもらうことにした。

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 別に頑張れば行けなくもなかったかもしれない。ただ来てから思わぬ出費が続いている。

 

 別に、周りは「長く滞在したいから、出費をできるだけ抑えたい」という私の意思を尊重してくれる人ばかりだが、些細なことで先の心配をする自分に時々呆れてしまう。

 

 お金が予想以上に出ていくと、その分を何かで埋め合わせなければ、ということを考えずにはいられなくなる。この町にいられるのも、残り数ヶ月かもしれない(語学学校に三ヶ月通った後、どこで何をするか考えていない)、と考えて、何かしないと時間が勿体ない、と焦らされる。

 

 心配で胸をいっぱいにするのはいつも未来のこと。それならいっそのこと全てをリセットして、束の間でいいから「今」という時間のみを享受したい。そんな望みをかけてここに来たのに……。

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 ヒトの見立ては究極的には当てにならない。例えば為替市場なんかは、予想外の方向に動くのが常だから、どう心配していいかもわからない。

 

 だいたい、全てがあらかじめ分かっていて、全くその通りに事が進んでいくとしたら、身をもって確かめる意味はあるのか。ほぼない。あったとしても無味乾燥な印象しか受けないと思う。

 

 わざわざ朝まで踊ってなくても良いじゃんかって思ってしまう人だけど、私の場合、そもそもこんなところでない限り、クラブなんか行かないだろう。

 

 とはいえ、運命に身を任せるのはすごく勇気がいる。だから保険が欲しい。ヒトが当てにならないなら人智を超えた何かにすがるしかない。

 

 そこで私にとって都合が良かったのは、ここグラナダにやってきた動機がはっきりと説明できないことである。

 

 ただ偶然頭のなかをグラナダに占有される出来事が積み重なったので、直感が成り行きでこの場所を選んだだけだった。

 

 それなら勝手にグラナダに呼ばれたということにして、そのいう通りにしていれば何かある、って考えて委ねよう。そうやって心を誤魔化している。

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 約束は守らないといけない、予想外の悪い事態を招くようなことは避けなければならない、という重圧。聞いた話によると、そのためかこの国では、予定をつくっては直前に人を誘うことも多いらしい。

 

 忙しい人が多すぎて日本でやるのは絶対に無理そうだけれど。

 

 この前、モロッコ人の友人に言われた「イン・シャー・アッラー(神の意志あれば)」という言葉がとても印象に残っている。その意味するところはもともと知っていたが、いい処方箋として貰うことになるとは思わなかったからだ。

カデーナ

 投稿の頻度が少し開いてしまったのは、先週末はグラナダから少し遠出して、マラガへ海水浴をしに行っていたことによる。

 

 私自身海は大好きだが、いつも散歩しながら写真を撮っているだけで、海水浴は滅多にしない。なので、ここに来てまた、水さえあればどこでもできるような楽しみ方を思い出した。

 

 海水浴はともかくとして、個人的には波を見ながら日光浴をするのがとても気持ちよかったので、日本に帰ったら定期的にやろうと思う。

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 ところで、今はもう平気だと思うけれども、実際のところ、はじめの頃私は、軽いホームシックになっていたように思う。

 

 ただ、日中は、常にやることややりたいことがあって、また誰かとすぐに顔を合わせることができたので、気持ちを誤魔化せていた。

 

 しかし夜になってベッドに倒れ込むと、いつも日本の夢を見た。親しかった人たちの思い出とかが、脳の奥底で再生される。目覚めた後も、それが強く頭に残っている。

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 結局私は、日本のことは好きなのだ。こちらに来て自分たちの国についての話題になると、日本文化とかの面白いあれこれを、流暢に語りたくなる衝動が押し寄せる。

 

 日本が好きな仲間も結構いて、「いや、それ流行ったの絶対ひと昔以上前だろ」、って言いたくなるような、私のよく知らない硬派アニメとかゲームの話を持ち出してくる人もいる。

 

 特に移住願望とかもないし、今のところ、永住するならやっぱり日本かなー、という気持ちは特に変わっていない。

 

 それで、どうして日本が好きなのか考えてみる。ところが、いいところはたくさん思い浮かぶけれど、決定的な理由は見つからない。

 

 それどころか、いいところと同じかそれ以上に悪いところがたくさん出てくる。ワーカホリック、ものがはっきりと言えない、非合理的なまでの目上尊重……。

 

 考えたところで、日本がいいと思う決定的な理由はわからない。もしこっちで生まれ育っていれば「スペインが一番いい」とか言うのだろう。私だったら。

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 それでも、(一ヶ月いたくらいでこのようにいうのは浅はかだが)、少なくとも今のところは、日本にいた時よりも楽に過ごせている。働いていないんだから当然か。

 

 でも、場所を全く動かずに、ただ仕事をやめただけでは、そんな風に楽になれるとも思えない。スペインの文化が優れているか、或いは自分によくフィットしているのか。そう言うことはもう少しあとで答えを出すとして…。

 

 ただ少なくとも言えるのは、日本から出たことで、いや正確に言えば自分の閉じこもっていた狭い狭い世界から少し足を伸ばしたことで、前より自由にものをとらえられるようになったこと。

 

(あれおかしいな…。以前別の文章で「引きこもりになる手段として」海外に行ってみるって言ったはずなのに……。)

 

 今まで持っていた、当たり前で、「絶対にこうしなければいけない」という考え方の軛を外して、実際はもっといろいろな生き方とか、考え方があること。それを知ることで、より自由になれるのだと思う。

 

 色々な国を旅して回っていたりとか、何ヶ国語も流暢に話せたりとか、今まで自分の周りにいなかったような人たちと知り合うことが、その鍵かもしれない。

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 ある日語学学校で「仕事」と「休み」という単語を使って一文を作る、と言う課題があった。何人かの学生は「仕事が大切だ」とか、「仕事のほうがいい」と答えた。

 

 すると先生はこういうことを言う。「あら、仕事よりも休みの方が大事でしょう。休みを満喫するために、私たちは仕事をしているのよ。」

 

 この台詞自体はどこにでもあるのかもしれない。日本でだって、多くの人がそう思っていると思う。

 

 でも日本でそれを聞くと、(本当は望ましくないのだけれど…)という、“※”付き事項を勝手に読み取ってしまう。

 

 「お前らそれでよくやっていけるな」と感じるくらいいい加減な国から来る人もいる。別に使われて困るわけではないけれど、人のものを当たり前のように勝手に使って自分のを買おうとしない奴とか。

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 日本人が寝もせずに長時間働くことは世界的にも結構有名な話らしい。彼らからすればそっちの方が「お前らそれでよくやっていけるな」なのだろう。働いている時は4時間しか寝なかったことを話すと、「いや、それ健康によくないよ」って。

 

 違う国の人からそう言うふうに言ってもらうことで、日本のそう言うところは本当におかしいんだな、必ずしもこのやり方が正解じゃないんだな、と言うふうに確信することもできる。

 

 まだまだ日本で寝る間を惜しんで働いた話をするとき、「えらい」とか「すごい」とか、尊敬の眼差しのようなものがあると思う。

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 文化が変われば変わってくるものと、絶対に変わらないもの。どこまで人は自由になれるのか。それを知るためにもっと多くの物語を聞きたい。ああ語学力とコミュ力…なんとかしないと。

融点

 こちらに来てから、今は学生まがいの生活をしているが、思ったより暇ではなかった(と言っても遊んでいるだけなのだが…)。

 

 したがってブログを編集する時間が、どうしても日曜の午後、或いは夜になってしまう。何が問題かというと、それが出来上がって投稿している時間が、日本時間では超憂鬱な日曜の深夜で、おそらく人目に触れるのは、もっと憂鬱な月曜日の朝ということになる。最悪だ。

 

 一瞬でも開いてくれた方には、これはもう感謝しかない。何とかして流れを変えたいと思っている。

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 今回は、もしかしたらすごくありきたりなことを書いているかもしれないことを許してほしい。内容が浅いと言われるかもしれないが、個人的にはすごく大きなことだと思っている。

 

 新しい場所に行けば行くほど、尊敬してしまうなぁ、という人とたくさん出会える日々。

 

 さて、ワーホリに来てまだ一ヶ月と経っていないが、私としては、始めよりだいぶ慣れてきたと思う。

 

 というのは、「非日常」だったものが徐々に「日常」になりつつあるということだ。

 

 ところで、私は「旅」という表現を好んでいる。しかし思うに「旅」とは、非日常を味わいに行くものではなかったか。もし非日常が完全に日常になってしまったならば、その時は別の名前をつけなければいけないことになる。

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 それでは、私の考える「非日常」とはどういうことか。もしあなたが今誰かほかの人といるのなら、今からしばらく英語しか話してはいけないことにする。そうして英語で話すようになったあなたたちだが、おそらく、このとき常に「英語で話している」という意識が頭の中にある。これが非日常だと思う。

 

 つまり、今自分あるいは自分たちが、一時的なことをしている、おかしなことをしている。そういうことを頭に入れながら、何かをしているのが、非日常。

 

 私の今までというのは、海外ではそういう非日常の中で生きてきたのだと思う。外国語を使うとき常に頭の中にあったのは、「今、自分が違う言語で話しているんだ」ということだった。

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 また肌の色や目の色が違う人に対しても、私は知らず知らずのうちに何か一線を引いていたのだと思う。この人たちは何か、自分たちとは違うように世界が見えていて、違う考え方でものを考えている。間違いではないのかもしれないけれど、自分にとっての非日常を生きている人たちである、と認識していた。

 

 その、いわゆる「旅行」をしているときは、常に非日常を散策しているという意識がある。傲慢にも外側から土地や人々を観察している。もちろん、「今は違う」なんて、到底言えたわけではないのだが……。

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 とにかく、母語でない言葉を使って過ごしていると、自然と外国語で話している意識がなくなってくるところがある。と言っても、まだ私はみんなの言っている言葉の意味がちゃんと分かっていないし、ハタから見ればカタコトでおかしなことを言っているだけの人なんだろうけれど。

 

 自分とは違う背景の人たちを、非日常世界の人……ではなく、自然と仲間として認識し出すところがある。寛解

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 すると、何だか自分たちが外国語で話していることとか、その言っている細かい意味がよくわからないこととか、どうでも良くなってくる。もちろん「今言ったこと分かった?」と訊かれて、首を傾げなければいけないのは何とかしたい。

 

 これまで非日常だったものの中に浸り、例えば誰かの言った表現を真似することで新しく言葉を覚えていくような、原始的な学習の体験。住む世界が、新しく、一から作られていくようで、これが結構楽しい。

 

ペルソナンヘ

 スペインのグラナダで語学学校に通いながら生活して、一週間が経過した。まず来て思ったことは、私はとんだ勘違いをしていた、ということである。

 

 数年前、冬に旅行で来た時は、それほど大きな都市でもなく、かといってお店がなくて不便すぎるというわけでもなくて、過ごしやすいかな、と考えていた。アンダルシアは夏にはガスパチョもあるし、冬でもどこか夏を思わせる景色が広がっている。では、夏にここに来たなら

どんなにいいだろう……。

 

 はっきり言って地獄である。夏、ここでは毎日40度近くの猛暑が続いている。おまけに家には冷房もついていない。扇風機も持っていない。どうすんのこれ。

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 真ん中に四角い中庭を持つ白い家々、冷えたトマトのスープ……。なんとも夏に恋しくなるような涼しげな光景だが、要はそこまでする必要があるということで、現実は決して穏やかではない。もちろん伝統の力は侮れず、外で陽射しに絞られているよりも幾分家にいた方がマシになるが、これから三ヶ月この白い蒸し釜のなかで暮らしていくと考えた時は死を覚悟した。

 

 かといってもう嫌になったかというと、別にそういうわけでもない。実は出国する前はなぜかかなり鬱々とした気持ちに苛まれていて、もしかするともう一生沈んだままなんじゃないかとも思ったが、そんなものは一切なくなった。

 

 結局は退屈だっただけなのかもしれない。あと一ヶ月も経ってみろ、マンネリ化した生活が君を再び蝕んでいくぞ……。

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 ここに来てから、一人でやろうと思っていたことを、何故か誰かとやっていることが多い。そもそも基本的に社交が苦手なので、一人でできるようなことしか考えていなかった。

 

 嬉しいことに、仲間がいつもタパスやらなにやらに誘ってくれる。英語がわからないので、イギリス人たちのマシンガンの如き英会話の撃ち合いを、ニコニコしながら黙ってみている。

 

 逆に一人で休む暇もなく、交際費でお金がなくならないか心配しているところもある。ただそれだと何も良くならないので、「先のことを考えすぎない」ということを戒めている。

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 とはいえ不思議なもので、海外にいた方が人と社交する気持ちのハードルは下がっている気がする。なぜか。

 

 考えられるのは…。

 

 まず、気分が上がっているということ。これについてはまあ、時間経過でどうなってしまうのか、気長にみてみよう。

 

 他には、縁もゆかりもないところではそもそも話せる人を探さないと生きていけないこと。鍛冶場力があって助かったのか。

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 ここまでは普通に思いつくが、ここに来て思ったことがあと二つ。

 

 一つ目は、人格というのは意外に演じられたものなのかもしれないということ。今私は「旅」という、それまでの日常とは違うゲームをしている。違う舞台で、違うキャラクターを演じている。そういうこともあるのかな、と。

 

 二つ目は、日本語のせい。何も日本語が嫌いと言っているのではない。日本語は表現豊かで美しい。

 

 ただ、豊かなだけに繊細だ。他の言語について詳しくないのではっきりとはいえないが、日本語は相手との関係性で大きく変化する。日本語で話すとき、常に相手との関係性を意識して話さなければいけないように思える。

 

 そうだとすれば、相手との距離感をつかむのが苦手な人間にとって、こういう作業がかなり会話を難しくしているのではないか、と思えるのである。

 

 実際、海外で知り合った日本人とどう会話するのが正解なのか、少し考えてしまう。

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 言語が人を創っている可能性……。興味深いので、スペイン語を学びながら考えていこうと思う。

 

 以上、一週間の所感だったが、今書いたような生活はやっぱり慣れないものなので、もちろんたっぷり疲れている。そんなわけで、スペインの文化とか、そういうのとは何も関係なくシエスタした日曜日だった。