雑音日和

教祖になるのが夢です。

ひるまひる

 気づけば三月ももう下旬に差し掛かっているようである。私はというと、海外で一つの街に身を落ち着けようと試みたものの、さっそくやることがなくなり、退屈と手詰まり感とホームシックの入り混じった、いわゆる「どうしようもない」状態に陥ったため、スペインに入って半年ほど経ったところで早めにワーホリを切り上げた。それでも余った予算を諸国漫遊しながら帰途につくために使ったので、少なくとも予算分は生きたと言ってもいいと思う。

 家に帰るや否や、またその「どうしようもない」状態に落ち着いたので、束の間の中だるみの時間の中にいる。今年はいまいち冬が明けきらない気がするが、三月のゆるい気候はその中だるみにとって心地いい。出会いと別れの季節であって、終わりと始まりの季節。一度死んだ魂が、洗い清められてまた次の肉体に入っていく、そんなイメージを感じさせてくれる。

 

 長年この国で生きていると、桜の開花を記号として無意識のなかに持つことになる。例えば入学式とか卒業式の象徴にされていて、始まりと終わりを飾るのだから、この上なくめでたくて特別な花である。

 

 色彩のうすい冬という季節をこえて、それだけで景色を一変させるほどの存在感と鮮やかさ。それが終わりと始まりの時期なのだから、なにか特別な祝福であるに違いない。そうやって集合意識がつくられてきたのかもしれない。

 先日、一足先に開花した河津桜を見に行ったが、確かにあの薄紅色は、「一巡した」という確かな感覚をもたらしてくれた。そこから視線を下の方に動かすと、訪れた平和を謳歌するような歓喜に満ちた人々の姿。めでたしめでたし……。

 

 しかしそれにも飽き足らず、視線を一つの株へと、一つの花へと向けてみる。注視の恰好をとる。みずみずしい新緑色の若葉がのぞいている。桜の花もいいけれど、葉桜もよく見ればすがすがしい。そしてそれこそ始まりを感じさせてくれるような、若い芽だった。

 するとたちまち私はふしぎな感覚に陥った。いままで始まりの花と信じていたピンク色の後を追う発色のいい緑。彼もまた、何かの始まりを知らせているのではないか。起承転結という使い古された展開の枠には収まりきらず、同じ要素が二度反復した混乱。どちらが本当の「始まり」なのか。

 

 ではこの木はこれからどうなっていくのだろう。成熟した緑は花の咲いたあとを埋め尽くし、実をつけ、紅葉し、なにもなくなったあとで再び開花を迎える。植物視点で見れば、緑の葉を広げて光合成をし力を蓄えるのはまさに起と承にあたり、その意味では始まりに相当するのはむしろこっちの葉桜なのかもしれない。

 しかし花をつける前に彼らは一度死んでいる。すなわち終わっているのだ。こうして終点を冬と定めて逆算すれば、始まりは開花でないと説明がつかない。

 一方花を咲かせるのはそもそも恋の季節なのだから、クライマックスに持っていきたいのが人情だ。厳寒を忍んだあと、ハッピーエンドでこの物語は終わる。

 でもそのあとで実をつけるということは、次の世代につないでいく意図が感じられるから、ひょっとしたらサクランボの夏をもって終わるのだろうか……。

 

 もちろん、こういった環状のものに始点と終点を想定するということ自体が、ナンセンスそのものである。それでも、桜の一生を人間都合の枠内に収めようとすると、おかしなことになってしまった感じがする。

 

 「宇宙無境界仮説」というものがあるらしい。私にはよく理解できなかったので、ググった方が早いと思われ説明は省くが、そもそも「始まり」と「終わり」という概念自体がヒトの作った幻想なのかもしれない。

 環状のものということで、一日についてはどうだろう。わたしたちの感覚は、朝をもって一日の始まりとし、夜をもって終わりとする。明らかにこれは、大抵の人間は朝起きて昼間に活動し、夜寝るというサイクルで生きていることに由来する。

 

 意識があって活動しているのは昼間起きている間なのだから、その起きている時間を本地として、始まりから終わりへと向かう時間を設定する。これは一見妥当に思える。しかしよく考えればこれも自分(たち)勝手じゃないか、と私は感じてしまった。

 

 なぜなら、寝ている人間はわたしたちであってわたしたちではないのだから。

 今これを書いている私も、読んでいるあなた方も、まぎれもなく起きている人間である。さらにはものを考え、言葉を話し、他人と意思疎通を図っているのはすべて起きている人間。

 

 眠っている人間に口はなく、せいぜい夢を見て寝言を言っているくらいである。だから彼らのことは無視するしかない。もしも寝ている人間と意思疎通ができたとしたら、起きている間には想像もつかなかったようなことを言っているかもしれないのに。

 

 そう、この世界は起きている人間の都合で動いている。だから、睡眠時間を削って褒められることさえある。それどころか、あんまり寝すぎると怠惰のレッテルを張られる。

 

 しかし客観的に見れば、起きていようが眠っていようがその人は等しく存在しているのだから、別にどちらを中心においてもいいはずだ。眠っている状態こそが、むしろ生物の本来の姿であった、という研究さえあるらしい。

 と、まぁ、だからと言って、私には「睡眠時間を犠牲にするな!」とか、「たとえ一生寝て過ごしたとしても悪かないだろ!起きている人と寝ている人の価値は平等だ!」という抗議の意図はない。

 

 でも、もしも起きている人と寝ている人の立場を逆転させて世界を見てみれば、何か違ったものが見えてくる気がする。

 暗闇の中で旅をしていた。ただ暗闇があるだけでなく、ろうそくみたいな光の中に入っていくことがある。そこでは、昼間無造作に入ってきた記号たちが、組み立てられてまた再生される。それは気づけば人の姿や景色になって、朧げだがこの目には見えていた。よく覚えていないけれど、昼間はもっと輪郭がはっきりしていたように思う。でもきっと、それらは本当はそんな鮮明な姿をしているわけではなかったのだろう。昼間は全く接点のない別人に見えた二人も、寝ているわたしからしたら実は同一人物だったのだ。性格がどことなく似ているのはたぶん、そういうことだろう。

 

 しばらくは平和な場面が続いたと思ったが、夢はおぞましい場面に切り替わっていて、絶体絶命の脅威を感じていた。いやむしろ恐怖感の方が先だっただろうか。全身を巡る血が速い。とにかくこのままではまずいことだけはわかる。きっと死ぬ。世界が終わる。逃げようと思ったけれど体が動いてくれない。できることといえば、もう後戻りのできなくなった運命を受け入れて、できる限り安らかに死ねる態勢をとるだけだろう……。

 雷かなんかに打たれたかのような突発的な恐怖は数秒前の過去のものとなって、目の前の事態を画面に映ったはりぼてのようなただの出来事として認識できるようになった。そして最後の一撃を食らうか食らわないかのうちに意識はとだえ、気づけば朝日の射したベッドの上にいた。どうやら夜の一生はここまでだったようである。また鮮明とした輪郭のある時間を、次の夜までしばらく生きなくてはならない。

 

 私たちは寝るために起きて活動する。そう、すべては今宵の安らかな眠りのために。朝起きてしっかり食べるのは、睡眠にも体力が必要だから。そして今日も仕事に向かう。快眠のためにはむしろ適度な運動が必要なのである。早く寝るために余計な仕事はせずに帰ろう。シャワーで体を温め、心地よくなったところに、快適な眠りのために整えておいたふかふかのベッドと、程よい高さの枕がある。生の根源のようなものに身をささげ、そして委ねるようにして、仰向けになれば朦朧としてくる思考。そして、再び、夜が、始まる……。第n夜…。