スペインのグラナダで語学学校に通いながら生活して、一週間が経過した。まず来て思ったことは、私はとんだ勘違いをしていた、ということである。
数年前、冬に旅行で来た時は、それほど大きな都市でもなく、かといってお店がなくて不便すぎるというわけでもなくて、過ごしやすいかな、と考えていた。アンダルシアは夏にはガスパチョもあるし、冬でもどこか夏を思わせる景色が広がっている。では、夏にここに来たなら
どんなにいいだろう……。
はっきり言って地獄である。夏、ここでは毎日40度近くの猛暑が続いている。おまけに家には冷房もついていない。扇風機も持っていない。どうすんのこれ。
真ん中に四角い中庭を持つ白い家々、冷えたトマトのスープ……。なんとも夏に恋しくなるような涼しげな光景だが、要はそこまでする必要があるということで、現実は決して穏やかではない。もちろん伝統の力は侮れず、外で陽射しに絞られているよりも幾分家にいた方がマシになるが、これから三ヶ月この白い蒸し釜のなかで暮らしていくと考えた時は死を覚悟した。
かといってもう嫌になったかというと、別にそういうわけでもない。実は出国する前はなぜかかなり鬱々とした気持ちに苛まれていて、もしかするともう一生沈んだままなんじゃないかとも思ったが、そんなものは一切なくなった。
結局は退屈だっただけなのかもしれない。あと一ヶ月も経ってみろ、マンネリ化した生活が君を再び蝕んでいくぞ……。
ここに来てから、一人でやろうと思っていたことを、何故か誰かとやっていることが多い。そもそも基本的に社交が苦手なので、一人でできるようなことしか考えていなかった。
嬉しいことに、仲間がいつもタパスやらなにやらに誘ってくれる。英語がわからないので、イギリス人たちのマシンガンの如き英会話の撃ち合いを、ニコニコしながら黙ってみている。
逆に一人で休む暇もなく、交際費でお金がなくならないか心配しているところもある。ただそれだと何も良くならないので、「先のことを考えすぎない」ということを戒めている。
とはいえ不思議なもので、海外にいた方が人と社交する気持ちのハードルは下がっている気がする。なぜか。
考えられるのは…。
まず、気分が上がっているということ。これについてはまあ、時間経過でどうなってしまうのか、気長にみてみよう。
他には、縁もゆかりもないところではそもそも話せる人を探さないと生きていけないこと。鍛冶場力があって助かったのか。
ここまでは普通に思いつくが、ここに来て思ったことがあと二つ。
一つ目は、人格というのは意外に演じられたものなのかもしれないということ。今私は「旅」という、それまでの日常とは違うゲームをしている。違う舞台で、違うキャラクターを演じている。そういうこともあるのかな、と。
二つ目は、日本語のせい。何も日本語が嫌いと言っているのではない。日本語は表現豊かで美しい。
ただ、豊かなだけに繊細だ。他の言語について詳しくないのではっきりとはいえないが、日本語は相手との関係性で大きく変化する。日本語で話すとき、常に相手との関係性を意識して話さなければいけないように思える。
そうだとすれば、相手との距離感をつかむのが苦手な人間にとって、こういう作業がかなり会話を難しくしているのではないか、と思えるのである。
実際、海外で知り合った日本人とどう会話するのが正解なのか、少し考えてしまう。
言語が人を創っている可能性……。興味深いので、スペイン語を学びながら考えていこうと思う。
以上、一週間の所感だったが、今書いたような生活はやっぱり慣れないものなので、もちろんたっぷり疲れている。そんなわけで、スペインの文化とか、そういうのとは何も関係なくシエスタした日曜日だった。