どうやら今週は皆既月食があったらしい。皆さんは見ただろうか。
この言い方からもわかると思うが、私は月食を実際にはこの目で見ていない。
その日は仕事で疲れていたのでそんなことよりもベッドダイブして泥のように眠りたかった、というのもそうなのだけれど、本心としてはたぶん、生きている間に月食は何度か見ているし、こんなもんかぁ~、という感じになっていたからだろう。
そもそも本当に月食が見たいのならば、疲れていることくらい忘れているはずなのだ。
ところが、世間のニュースも私の周囲のSNSも、口をそろえて月の欠けていく様を賛美している。たった一つしかないはずの月が、幾つものデジタル機器の眩光となって、分身し、地上に広がっていく。
こういうとき、見なかった人は大抵物言わぬものである。なので、媒体の中ではそのような人たちは「存在していない」。そうして私はひとり取り残された気分になってくる。みんながみんな月の信者となり斉唱している中にうずもれて、知らぬ間に罪のない後悔を植え付けられている。同調圧力に近いものか。
これならまだしも、この種類の月食は特別で、442年ぶりだと言うではないか!肉眼で見えないはずの天王星のことまで持ち出して……。
え!?戦国時代ぶりの月食あんど天王星食?知らないよ??なにそれ!
明らかに天王星のことなんかは、知らない方が幸せなはずなのに、どこぞの誰かが声高らかにその事実を暴露して、特別感を水増しする。この日のためにお高い望遠鏡をこしらえて、虎視眈々ともいえるような様子で観察に臨む人もいる。
「この機会を逃したら、もう一生同じことはおとずれない」。こういう“事実”よりも強迫的なものはない。どうしてわざわざそのことが強調されねばならんのだ、と見なかった者は思う。月食が綺麗で神秘的だったなら、それで良いではないですか。
特別だったものは、おそらくだが三日もたてば大抵の人々の頭の中からは消えている。あたかも永遠の価値のように宣伝していたのにも関わらず。
それでももし私が、見えないものを見ようとして、望遠鏡を担ぎ出すことがあったのなら、そのときは何度でも転生を試みるだろう。そういうことだ。