雑音日和

教祖になるのが夢です。

定額サブスクリプションな日々

 財布から、毎月一定の金が差し引かれる。こういう固定支出額は、やっぱりできるだけ減らしたいものである。精神衛生上あまり良くないから。

 

 特に、束縛を嫌い、まず何よりも自由を大切にする人たちにとっては。

 

 「自由に」お金の使いどころと使う量を考える余地は、やっぱりどうしても残しておきたい。

 

 定額で差し引かれるのが私はどうしても好きになれないようで、各所で滞納常習犯になりかけている。少し前は年金請負業者から電話がかかってきた。

 

 別に、お金がないわけではないと思う。ただ、自分で処遇できる値が減ってしまうことにたまらなく不安になってしまうのだ。

 

 もらった給料を右から左へと流す。お金という脈をつないでいくだけの水道橋。そこに遊びはなくて、つぶれてしまったとしても、数多ある道の、か細い一本がなくなるだけとは儚い。

 

 だから、意地でも創造の余地が欲しい。つなぐだけの代物ではなくて、存在を意義あるものにするために。

 

 でもねえ、意外に選択肢ってのは多くないんだよ。私にとって、その自由意思で選び取ったサブスクリプションとは、微々たるものだけれど毎日のカフェインだった。

 

 働くために珈琲を注入し、帰りにも高い頻度で憩いの場を確保するために、どこか適当なカフェに寄る。多くは望まないけれど、仕事帰りとはまた違ったカフェで過ごすゆっくりした休日がなんだかんだ幸せ。…あれ、これまでカフェインにいくらつぎ込んだかな。

 

 気にしすぎな感じはある。これが人によっては酒とか煙草とか、推しとか、趣味的な維持費に当たるわけで、そういうことはぜんぜん真っ当だし、そんなものといえばそんなものだ。それでも、こうして意図せずとも、定期的に決まった額の支出が出ていく轍がつくられていくのに耐えられない自分がいる。

 

 最初は自由な選択の余地の中で始めたし、今だって本当はそのはずだった。それでも、気づいたときには逆にそいつらが我々を支配している。

 

 どんなものにでも寿命はあって、なくなるときにはきれいになくなってしまう。それなりの生活水準を維持しようとすればそれなりのコストがかかる。大きな機械でさえも最後には壊れるか時代遅れになってお陀仏。

 

 あー、永久機関、できないかなぁ。