雑音日和

教祖になるのが夢です。

これからの企みと、私の旅について

 今に今にと思いながら、長らく記事を更新していなかった。まずはそこを謝らせてください。すみませんでした。

 

 いつも、何か書こう!と思い、考えをあたためている間にどうでも良くなってしまい、そして半年が経過している。個人的には半年は結構、長かった。

 

 それで、ここに戻ってきたのは、このブログの方向性を転換する時期に入ったからである。

 

 実は、もともと旅行記のようなものを書いてみたいという思いがあった。遠くに行って何かを見て感じたことを、吹きっさらしの脳内にとどめておくのではなく、世界のどこかに残しておけたらな、といった具合だ。

 

 だが、面白い旅という旅を、最近はそれほどたくさんしているというわけでもなく、細々したことに忙殺されてとても記事にまとめられそうにもなかったので、何も書けていなかった。

 

 しばらくお金を片手間に貯めながら、迷える子羊のような日々を送っていたのだが、ついに私はワーホリビザを手に入れた。

 

 ……なので、スペインにしばらく行ってこようと思います。

 

 

 

 さてところで、まずは旅に出ようと思う心境から書いていきたいと思う。もちろん旅が好きだからというか、好奇心、というのが第一であるのは間違いない。

 

 だが日々考えを深めていく中で、それだけにとどまらないものがいろいろと出てくる。

 

 後付けの考えなので、正確には「旅に出た方がいいと考えた理由」になるのだろう。「なにもそこまでして自分のやることを正当化しなくていいから、どこでも勝手に行ってきなさい」と言われてしまうかもしれないけれど。

 

f:id:zatsuonbiyori:20230709150737j:image

 

 人と会ったりすることは楽しい。が、最近そのあとで、底の方から鵺のようなものじわじわと責め立ててくる。

 

 「自分、こんなんでいいのかなぁ」

 

 浜辺に築き上げた砂の城が、波に洗われてまっさらになるような感覚になることがある。

 

 もちろんこれは気にしすぎで、私のことをわざわざ気にとめるほど暇な人などいないのは承知している。

 

 ただ、砂の城……「自分の世界」というのはもろいもの。もろい上に、常に外圧に晒されており、簡単に破壊されてしまう。

 

 昔からよく「自分の世界に入っている」と言われて育ってきた自覚がある。多分、いい意味でも悪い意味でも言っていない人も多いと思うが、その「自分の世界」は生きていく上で、多くの場合邪魔になる。

 

 子どもならまだしも、大人がこれを意地でも守ろうとするのは、明日の飯に関わる問題になってくる。

 

 なので、捨ててしまったほうが面倒なことにならずに済むのだろう。でも逆にこれをもう少しきわめてみたいという、無益な誘惑がある。

 

 さっきから「自分の世界」「自分の世界」ってなんのことだと思うかもしれない。私にもよくわからないが、そこに何か道のようなものが見えている。

 

 きわめるってなんだ。目の前にあらわれたものをいろいろな感覚で感じとり、時間をかけて思考する。今いえるのはそういうことかと思う。

 

 なので、遠くにいきながら、その実は内を向いているのかもしれない。引きこもりになる手段として、誰も知らないところに行くことを選んでみた。

 

 

 

 とまぁ、要は見たもの感じたことをあれこれ綴っていきたいと思うので、どうぞお付き合いくださいませ。

迫られる年末

 断捨離できない人間の年末は憂鬱である。さすがに12月31日にもなって大掃除の人はいないと思うが、どこへ行っても「大掃除をしなければ」の波が押し寄せてきて、やらなければ次くる年にどんな災難が訪れるかわからない気持ちにさせる。そんな強制力がある。

 

 部屋が散らかっているか散らかっていないかで言ったら、私は当然前者だろう。足の踏み場もない、生活するスペースもない……レベルの、部屋をダメにしてしまうほどではない。しかし、とにかくモノを置けるスペースを見つけては何か置くので、それはそのままくすんだ部屋の景色の一部になって、省みられなくなっていく。

 

 そうやって時間に置き去りにされたモノたちと再び目が合ったとき、彼らの責め句が聞こえてくる。

 

f:id:zatsuonbiyori:20221231174423j:image

 

 そう、片付けや掃除をするというのは、ただ単にモノを捨てるか残すか、そんな単純な話ではないのだ。

 

 目を瞑っていた自分の過去と向き合う気概がためされる。そしてこれからどこへ向かっていくべきか、選択を迫られる。これだから、年末の大掃除は、重い。

 

 机のわきに目をやれば、続きを読む気で平積みされた本。本棚に戻したいけれど、入居者はすでに満員になりかけている。そのうえウォールナット材のマンションにも、孤独死しかけている住人がいる。

 

 クローゼットには、学生時代から買い溜めてきた衣類の数々……。定期的に「着る服がないな」と感じたりするが、それは半分正解で、半分は間違え。とりあえず裸で街を歩いたりしなくて済むであろうが、趣向もある程度かたまった今、それらを身に着けることは、違和感を連れて歩くことを意味する。

 

 もう着ることはないのだから、売るなりリサイクルに出すなり捨てるなりしようとは思うのだが、仕分けたりもっていったりする手間が大変なのだ。いつか持っていこうと言っている間に、趣向にあった服がやってくるので、頻度が高くはないものの、結局は足し算しかしていない。

 

 キーボードを打っている半径数メートルには、忘れ去られた歴史の断片が埋もれている。死ねない理由も多分そこにある。たとえば遺品整理なんかされたりして、もし万が一吐き溜めやら黒歴史やらが再び日の目を見たとするなら、私は安心してこの世から消えてゆける自信がない。

 

 「決断」というときに、断ち切るという意味の文字を書く。清々しい新年を迎えるためには、掃除片付けにいちいちくよくよしてはいられない。と、なんとか自身を鼓舞するなどしてみる。

 寝る前にはお香を炊く時間を作っている。一日を浄化するのである。歳を重ねるにつれて世界の流れが速くなっていることには誰もが気付いているはずだが、満足感の方はそれに追いつかないものである。

 

 たとえ今日生きた未練が泥のようにまとわりついていても、疲れているなら眠ることはできる。それでも、この日に満足するまではこの日を終わらせてはいけない。そう漠然と考えているのだ。きっと意地でもある。

 

 別に、格段いいお香を使っているわけでもない。いまのところプライドもない。チャイハネで20本入り二百円のお香を買って、薄暗い部屋で一人寂しく愉しんでいる。たまに、はじめっからシケっていたりするのだが。

 

 火をつける。明かりは読書灯だけにし、机の中央に香炉を置く。細く立ち上る白煙。

 

 魔力のような。消えた煙は守りのベールに化けている。

 

 なにかと煩いごとの多い世の中だが、「絶対的安全圏」はこうやって作れる。

 

 そういうわけなので、お香はいいぞ、という話をする。

 

 お香の香りというのは基本的にどれを炊いても安らぎをもたらすものである。中にはスパイシーな香りも存在するが、その気を持つ香りすら、お香にすると優しくなってしまう。

f:id:zatsuonbiyori:20221127221038j:image

 なかでも私が最も気に入っているのが、ジャスミンだ。高貴な美しさの中に、仄かな黄金色を連想させる優しさがある。気高いけれども慈悲深いのだ。

 

 そんな香りの完璧さと高貴さの所以か、ジャスミンを炊くのを逆に勿体ぶってしまう。コストがかかるわけでもない。それでも、温存しながら使っていることが自分にとっての“思い込みの”価値を上げているのかもしれない。

 

 あるいは誰にでもおすすめできるのは、ラベンダーだと思う。ラベンダーは絶対的な包容力を持つ。アロマの中でも最高級の地位を確立しているようだ。

 

 ラベンダーは紫色のミストだ。浴び続けていれば、そのまま昏倒してしまいそうな気すらする。眠りへと落とされる魔力。

 

 高校時代の合宿で、ラベンダー畑を走っていたときの情景がなぜか思い出される。左右を見渡せば淡い紫の群れ。花に詳しくない私でも、ラベンダーだとすぐに分かる。漂ってくる眠りの鱗粉。

 

 運動中に場違い甚だしいのだが、どこまでも柔らかいベッドがあって、そこに大の字になって寝ていたくなる心地がした。

 

 白檀、あるいはサンダルウッドともいうが、それもまた良いだろう。ジャスミンやラベンダーにはそれぞれ特有の艶めかしさがあるが、こちらはどちらかといえば、しっとりとしている香りである。お寺によくある類な気がする。

 

 最近はムスクも気に入っている。強烈ではないが、その香りは深くて濃い。

 

 しかしお香は難しい。時にそれは、煙の臭いしか感じられないときもある。定期的なメンテナンスを忘れて薬のように浴びていると、香炉の内部におどろおどろしくタールが溜まっていく。人によっては、やにくさいと言って忌避する場合もあるだろう。

 

 それでも、私はお香の煙で自分だけの時間をつくる。社会は画一化されていても、個人の安らぎくらいは、十人十色でいいはずだ。

 

げつようび。

 はーい皆さぁーん!月曜日ですよー!!月曜日がやってきましたぁーー!!

今週も、元気にっ!!出勤登校ガンバロー!!  ……怒った?

 

 ……と、いま私がやったのはこの上ない煽りである。そしてそのポイントは「月曜日」である。

 

 品川駅とかで「f××k」の代わりに「月曜日」とプリントTに書いてちらつかせれば、御仏だろうがイエスだろうがガンジーだろうがなんだろうが、拳を振り上げて全速力でこちらに向かってくるだろう。要は、それくらいの危険をはらんだ単語なのである。

 

 月曜日になると考えるだけでしんどくなる。カレンダーを持った人類に共通の悩みだ。試しにGoogleで「月曜 仕事」と打ち込んでみよう。蜘蛛の糸に群がる地獄の住人の呼び声を聞いているような気持になる。

 

 多くの人がそのように考えているにもかかわらず、政治家も技術者も何もしてくれない。まるで拷問部屋のような有様である。

 

 運命の歯車の上で、人はみなハムスター運動をさせられ、そして月曜日が等間隔で設定されている。

 

 一応、鎮痛薬としてモンスターエナジーなど栄養ドリンクがおすすめだが、根本的な解決にならない。(どうやらモンエナは来年2月から値上げになるそうだ。痛みで立てなくならずに戦い続けるには、値上げ分の損失30円を甘んじて受け入れるしかないのかもしれない。)

 

 しかしどうか彼の身にもなってやってください。どうしてそんなに月曜日は嫌われなければいけないのだろうか。……いや、その答えは明白で、休日の平和な時間を容赦なく打ち砕くからである。

 

 月曜日が泣いているので、彼の名誉挽回のために月曜日の良さを私は考察して見せる。

 

 そうだ。なんといっても月曜日は頼もしい。自ら戦陣に立つこの潔さ。男前である。それに比べてむしろ、隊列の後ろの方でふんぞり返っている土曜日や日曜日ほど怠惰なものはない。

 

 優柔不断で後に続くことしかできない水曜日や木曜日。一応戦う姿勢は見せるが保身が大切金曜日。

 

 なるほど月曜日は馬鹿なのかもしれない。そして不器用なのかもしれない。しかし月曜日が人類の不満を一手に引き受けてくれるおかげで、残りの6人が守られる。月曜日には絶対に頭が上がらないはずだ。

 

 それでも月曜日が許せないという人へ。まぁそうですよね。私もやっぱり大嫌いですよ。

何か、教団じみた…

 どうやら今週は皆既月食があったらしい。皆さんは見ただろうか。

 

 この言い方からもわかると思うが、私は月食を実際にはこの目で見ていない。

 

 その日は仕事で疲れていたのでそんなことよりもベッドダイブして泥のように眠りたかった、というのもそうなのだけれど、本心としてはたぶん、生きている間に月食は何度か見ているし、こんなもんかぁ~、という感じになっていたからだろう。

 

 そもそも本当に月食が見たいのならば、疲れていることくらい忘れているはずなのだ。

 

 ところが、世間のニュースも私の周囲のSNSも、口をそろえて月の欠けていく様を賛美している。たった一つしかないはずの月が、幾つものデジタル機器の眩光となって、分身し、地上に広がっていく。

 

 こういうとき、見なかった人は大抵物言わぬものである。なので、媒体の中ではそのような人たちは「存在していない」。そうして私はひとり取り残された気分になってくる。みんながみんな月の信者となり斉唱している中にうずもれて、知らぬ間に罪のない後悔を植え付けられている。同調圧力に近いものか。

f:id:zatsuonbiyori:20221113001027j:image

 これならまだしも、この種類の月食は特別で、442年ぶりだと言うではないか!肉眼で見えないはずの天王星のことまで持ち出して……。

 

 え!?戦国時代ぶりの月食あんど天王星食?知らないよ??なにそれ!

 

 明らかに天王星のことなんかは、知らない方が幸せなはずなのに、どこぞの誰かが声高らかにその事実を暴露して、特別感を水増しする。この日のためにお高い望遠鏡をこしらえて、虎視眈々ともいえるような様子で観察に臨む人もいる。

 

 「この機会を逃したら、もう一生同じことはおとずれない」。こういう“事実”よりも強迫的なものはない。どうしてわざわざそのことが強調されねばならんのだ、と見なかった者は思う。月食が綺麗で神秘的だったなら、それで良いではないですか。

 

 特別だったものは、おそらくだが三日もたてば大抵の人々の頭の中からは消えている。あたかも永遠の価値のように宣伝していたのにも関わらず。

 

 それでももし私が、見えないものを見ようとして、望遠鏡を担ぎ出すことがあったのなら、そのときは何度でも転生を試みるだろう。そういうことだ。

ローカルなスーパーとか薬局とかの話。

 わけのわからない趣味趣向がいくつかあるのは、自分でもよく自覚している。その一つとして、見知らぬ町を歩いていると、何でもないものが気になりだす。

 

 大通りに面していて、サッカーコートが何個か入りそうな長方形の区画を広々ととった駐車場と、その奥の、横長で一階建ての店。聞いたことのないカタカナ語で書かれた店名の看板。

 

 その地に根付いているのであろう、そして自分の生活圏には出店していないしこれからも出店しそうにない、スーパーマーケットやドラッグストアである。

 

 開放的な雰囲気で目に入れても痛くない。夜に歩いているときに目につくと、すっからかんの暗い道の中に、大きな立て板と気長に営業している店内の白い光があって、圧倒的な存在感を放っている。

 

 これこそウェルカムな雰囲気というのだろう。

 

 数えるほどしか客が入っていないのに、フルで明かりをつけた上で悠々と営業している様子からは、「気長に待っていますんで、まぁどこの人でも気軽にきてくださいよ」というメッセージを勝手に受け取ってしまう。

 

 店があってくれると、その地方のやり方を発見したという気持ちになれるのが嬉しい。いまは、大きく生活に関わっている商品であれば、日本全国どこに行っても同じものが手に入る。均質化しているなかで、遠くの人が本当に見ているものがわかりにくい。

 

 それで、地元に愛されライフラインを提供するスーパーや薬局は、それをわずかに見せてくれるような気がする。売っている商品や内装はどこも一緒だけれど、ただ地域限定のお店の名前と外装によって「地域の生活」に意識をフォーカスさせてくれる。

 

 ちょっと嬉しくなると、財布の紐がゆるむ。そうして、どこにでもあるような飲み物やお菓子などのちょっとしたものを買ってしまう。

 

 よくその地に馴染んでいるから、ここの住民は、このチェーン店がどこの地方にも当たり前にあるかのように感じているのだろう。

f:id:zatsuonbiyori:20221106010058j:image

 生活圏を遠く離れたときの、旅行の楽しみは、結局、津々浦々に変わらぬ生活があることを感じることである。

 

 知らない駅の待合室や、駅前の広場にも、だれかの日常があふれている。

 

 そこで青春を過ごす人や、生業に精を出す人、家族とともに暮らす人に、人生の終盤まで街と共に歩んできた人……。

 

 景色は違えど、同じ人の営みがある。自分にもあったかもしれない誰かの人生の一コマを想う。それでほっこりとした気分になれる。

 

 旅先でどんなに珍しい絶景や文化財を見ても、最後に私が行き着くのは生きている人間なのだ。

カオスが何を連れてくるか

 先日、とある国の料理を都内某所に食べに行った。口コミの情報を頼りに、看板もない、日本在住の現地人コミュニティのあるようなところにたどり着いた。

 

 どうあがいてもしゃべっている内容を推測することのできない男二人が座っている向かいの席に座らせてもらう。メニューはなく、日本語がぺらぺらとは言えない店員に「これか?」というような感じで注文を尋ねられる。

 

 ちょっとカオスで、久しく海外に行っていない私には渇きを癒すようなひと時だった。

 

 たまには旅の話をしたい。

 

 アルヘシラスという町がある。スペインの南岸で、アフリカとの船が行き交う。イギリス領ジブラルタルのこんもりした丘を望む港だ。

f:id:zatsuonbiyori:20221030192843j:image

 日が沈みきった頃にモロッコからユーラシア大陸に帰着した私は、旅程的に急いでいたので次の町へ向かおうと駅へ向かったのだが、本日中の移動は厳しく、その場でこの町の宿をとって泊まることにした。

 

 お腹が空いていたので、どこか食べるところを探そう。どこにあるかわからないバーガーキングの案内板を横目に、駅から港のほうへ戻っていた。ハンバーガーとかを扱っている店が多い。

 

 多くの店はモロッコ人と思われる人がやっているようだ。その中の一つで何か食べることにした。

 

 路地の見える窓際の席に案内され、そのまま席に着く。2人がけの奥の席。お店にいる人たちが、たぶん向かいの国の言葉で話しているのが聞こえる。

 

 しかし気になったのは、窓の外のほうだった。

 

 十数人くらいの男たちが、路上にガラクタを広げている。安っぽい日用品から、大の男になんの需要のあるかわからない女児向けの人形まで取り揃えている。フリマでもやっているのだろうか。それにしては、ちょっとごちゃごちゃし過ぎているというか…。

f:id:zatsuonbiyori:20221030220745j:image

 なんだこれはと思っていると、ヒジャブを被ったオバチャンが勝手に向かいの席に相席してくる。何も言わずに、窓の外を楽しそうに眺めている。

 

 なんだかワケのわからないことになっているぞ……大丈夫かこれ。サンドイッチを食べている私。冷や汗がでてくる。

 

 食べ終わって店を出た。すでにガラクタは畳んであった。だが、あろうことか宿のある場所は連中がうろついている。

 

 危険なにおいもしなくもないが、まあ大丈夫だろう、通るだけだし。

 

 すぐ脇にある、まだ大通りの見える路地へ入る。

 

 宿を探していると男の一人が声をかけてきた。「ホテル?そこだよ。」

 

 次の1.5秒くらい(割といい人なのかな…)と思いかけた直後、彼は「1ユーロ!1ユーロ!!」とカネを要求しはじめた。

 

 何かとカネを要求してくるおじさん達がいる、モロッコの旧市街という魔境を出たと思っていた私は油断していた。ここはまだアフリカなのだった。

 

 反射的に、教えてもらったホテル(ゲスハ)の真っ暗な建物の内部に逃げ込むと、それ以上彼は追ってはこなかった。

 

 チェックインを済ませて、考える。

 

 結局あの人たちは、どういう集まりなのだろう。ごちゃごちゃとガラクタを広げて、何をしていたのだろう。なぜ、1ユーロ(当時は130円ほど)という、何の足しにもならないような金額を要求してきたのだろう。

 

 一体いくつの国境を越えて、この街にやってきたのだろう。

 

 ヨーロッパの端の国では、不法移民の問題がある。海を渡ってすぐのモロッコの、さらに南の国々から、貧困や紛争を逃れて多くの人々が命がけでやってくる。

 

 彼らがそうなのかは知らないが、混沌が謎を生む。

 

 明らかに、危険なことの起こりそうなところに突っ込むのはよくないが、節度をわきまえられればカオスの中から知らなかったものが見えてくる。

 

 見えてくるというよりは、謎というかたちで「あらわれる」。

 

 変化に飢え続けている私は、カオスは恋しくもある。