雑音日和

教祖になるのが夢です。

ローカルなスーパーとか薬局とかの話。

 わけのわからない趣味趣向がいくつかあるのは、自分でもよく自覚している。その一つとして、見知らぬ町を歩いていると、何でもないものが気になりだす。

 

 大通りに面していて、サッカーコートが何個か入りそうな長方形の区画を広々ととった駐車場と、その奥の、横長で一階建ての店。聞いたことのないカタカナ語で書かれた店名の看板。

 

 その地に根付いているのであろう、そして自分の生活圏には出店していないしこれからも出店しそうにない、スーパーマーケットやドラッグストアである。

 

 開放的な雰囲気で目に入れても痛くない。夜に歩いているときに目につくと、すっからかんの暗い道の中に、大きな立て板と気長に営業している店内の白い光があって、圧倒的な存在感を放っている。

 

 これこそウェルカムな雰囲気というのだろう。

 

 数えるほどしか客が入っていないのに、フルで明かりをつけた上で悠々と営業している様子からは、「気長に待っていますんで、まぁどこの人でも気軽にきてくださいよ」というメッセージを勝手に受け取ってしまう。

 

 店があってくれると、その地方のやり方を発見したという気持ちになれるのが嬉しい。いまは、大きく生活に関わっている商品であれば、日本全国どこに行っても同じものが手に入る。均質化しているなかで、遠くの人が本当に見ているものがわかりにくい。

 

 それで、地元に愛されライフラインを提供するスーパーや薬局は、それをわずかに見せてくれるような気がする。売っている商品や内装はどこも一緒だけれど、ただ地域限定のお店の名前と外装によって「地域の生活」に意識をフォーカスさせてくれる。

 

 ちょっと嬉しくなると、財布の紐がゆるむ。そうして、どこにでもあるような飲み物やお菓子などのちょっとしたものを買ってしまう。

 

 よくその地に馴染んでいるから、ここの住民は、このチェーン店がどこの地方にも当たり前にあるかのように感じているのだろう。

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 生活圏を遠く離れたときの、旅行の楽しみは、結局、津々浦々に変わらぬ生活があることを感じることである。

 

 知らない駅の待合室や、駅前の広場にも、だれかの日常があふれている。

 

 そこで青春を過ごす人や、生業に精を出す人、家族とともに暮らす人に、人生の終盤まで街と共に歩んできた人……。

 

 景色は違えど、同じ人の営みがある。自分にもあったかもしれない誰かの人生の一コマを想う。それでほっこりとした気分になれる。

 

 旅先でどんなに珍しい絶景や文化財を見ても、最後に私が行き着くのは生きている人間なのだ。