私の青春。教室の目立たない片隅に、冴えない陰キャたちで集まって気持ちの悪い会話をする。「俺たちの青春はどこへ行ったんだ」などと言っている。今となってはこれもある意味青春だ。
大人になるにつれて、人は社会性を身に着けていく。人としては望ましいことではあるし、必要なことでもある。日陰でうだうだ言っていても、まず生きていくことはできない。
発達心理学的にも、思春期の友人関係は「チャム・グループ」という似たもの同士の集団だが、成長とともに、多様性を受け入れた「ピア・グループ」という集団になるという。
社会通念から見ても、望ましいのは多種多様な価値観が認められていること。ありとあらゆる差別に対して、人間はセンシティブになる。
人を差別することは決してあってはならない。そのことを否定することは私にはできない。でも、劣等感とルサンチマンにまみれた排他性のある世界が、恋しくなったりもする。
私が成長していないだけなのだろうか。
生き物にも人物にも物質にも、次々付箋をはる。カテゴリー付けする。そうやってぐちゃぐちゃだった世界が見えるようになる。航空写真から地図ができるから、自分たちが今どこにいるのか見失わずにいることができる。
でもそうやって真っ白で、ただただ大きな構造物を、赤と青に塗り分けたら、色眼鏡を使って赤いところを無きものにして、青いところだけを見ることだってできてしまう。
何かを排すことで、生きてきたのだ。
しかし、自ら排されたいとも思わない。
その、生かす殺すのバランスがとれていることが、たぶん「望ましい」のだと思う。
正論を主張しているつもりの過激な社会運動が煙たがられるのは、均衡を崩すからだ。生きるための潔癖症が、逆に枷になる。
ただ、「均衡」を保っている範囲内でも、排された側にとっては結局排されているのだから、彼から見て不幸なのは変わらない。
少し話がずれているかもしれないが、例えば交通事故の発生件数が50と5の街があったとする。そりゃ数値の上では5の街のほうが安全だよね、ってなるけれど、その5に一体どんな事情があるのかというのが、どうしても気になってしまう。
同じように「〜する人の80%が云々」 調のデータにあまり説得力を感じないのは、20%の方にひっかかるためである。
なんとか上手に生きたいね、っていう話。