雑音日和

教祖になるのが夢です。

融点

 こちらに来てから、今は学生まがいの生活をしているが、思ったより暇ではなかった(と言っても遊んでいるだけなのだが…)。

 

 したがってブログを編集する時間が、どうしても日曜の午後、或いは夜になってしまう。何が問題かというと、それが出来上がって投稿している時間が、日本時間では超憂鬱な日曜の深夜で、おそらく人目に触れるのは、もっと憂鬱な月曜日の朝ということになる。最悪だ。

 

 一瞬でも開いてくれた方には、これはもう感謝しかない。何とかして流れを変えたいと思っている。

f:id:zatsuonbiyori:20230731064658j:image

 今回は、もしかしたらすごくありきたりなことを書いているかもしれないことを許してほしい。内容が浅いと言われるかもしれないが、個人的にはすごく大きなことだと思っている。

 

 新しい場所に行けば行くほど、尊敬してしまうなぁ、という人とたくさん出会える日々。

 

 さて、ワーホリに来てまだ一ヶ月と経っていないが、私としては、始めよりだいぶ慣れてきたと思う。

 

 というのは、「非日常」だったものが徐々に「日常」になりつつあるということだ。

 

 ところで、私は「旅」という表現を好んでいる。しかし思うに「旅」とは、非日常を味わいに行くものではなかったか。もし非日常が完全に日常になってしまったならば、その時は別の名前をつけなければいけないことになる。

f:id:zatsuonbiyori:20230731064803j:image

 それでは、私の考える「非日常」とはどういうことか。もしあなたが今誰かほかの人といるのなら、今からしばらく英語しか話してはいけないことにする。そうして英語で話すようになったあなたたちだが、おそらく、このとき常に「英語で話している」という意識が頭の中にある。これが非日常だと思う。

 

 つまり、今自分あるいは自分たちが、一時的なことをしている、おかしなことをしている。そういうことを頭に入れながら、何かをしているのが、非日常。

 

 私の今までというのは、海外ではそういう非日常の中で生きてきたのだと思う。外国語を使うとき常に頭の中にあったのは、「今、自分が違う言語で話しているんだ」ということだった。

f:id:zatsuonbiyori:20230731064727j:image

 また肌の色や目の色が違う人に対しても、私は知らず知らずのうちに何か一線を引いていたのだと思う。この人たちは何か、自分たちとは違うように世界が見えていて、違う考え方でものを考えている。間違いではないのかもしれないけれど、自分にとっての非日常を生きている人たちである、と認識していた。

 

 その、いわゆる「旅行」をしているときは、常に非日常を散策しているという意識がある。傲慢にも外側から土地や人々を観察している。もちろん、「今は違う」なんて、到底言えたわけではないのだが……。

f:id:zatsuonbiyori:20230731064854j:image

 とにかく、母語でない言葉を使って過ごしていると、自然と外国語で話している意識がなくなってくるところがある。と言っても、まだ私はみんなの言っている言葉の意味がちゃんと分かっていないし、ハタから見ればカタコトでおかしなことを言っているだけの人なんだろうけれど。

 

 自分とは違う背景の人たちを、非日常世界の人……ではなく、自然と仲間として認識し出すところがある。寛解

f:id:zatsuonbiyori:20230731064859j:image

 すると、何だか自分たちが外国語で話していることとか、その言っている細かい意味がよくわからないこととか、どうでも良くなってくる。もちろん「今言ったこと分かった?」と訊かれて、首を傾げなければいけないのは何とかしたい。

 

 これまで非日常だったものの中に浸り、例えば誰かの言った表現を真似することで新しく言葉を覚えていくような、原始的な学習の体験。住む世界が、新しく、一から作られていくようで、これが結構楽しい。