雑音日和

教祖になるのが夢です。

一人称が迷子

 日本語は一人称が多すぎる。自分の呼び方一つにどうしてそこまでバリエーションを持たせるのか。

 

 外国人は日本語を学ぶときに、いちいち自分を何て呼ぶかで選択を迫られたりでもするのだろうか。またどういう理由で自分の呼び方を決定するのか。興味深いところである。

 

 そしてまた、その使い分けがちゃんと機能しているところが面白く、そしてまた憎くもある。漫画などの創作では、登場人物がどの一人称を使っているかで、そのキャラクターの性質がだいたいわかるようになっている。

 

 おおむね肉食系の男性が“俺”を使っていて、草食系は“僕”を使っているし、田舎者は“おら”とかいうし、王様クラスになれば“朕”の使用が許される。さらに“俺”は未熟なイメージを滲ませたい場合、カタカナで“オレ”にすることもできるし、女性限定だが“私”に幾分か自意識の高さを加えると化学反応を起こして“あたし”になったりもする。このように日本語の一人称は無限に変化し、それが使う人がどのような人であるかを示す。何なら新しく作ることだって可能だろう。

 

 現実世界でも一人称の力は大きい。たとえば常体と敬体で使い分けて自分たちの立場をはっきりと示すこともできる。プライベートでは“俺”を使っている人も、かしこまった場では自分のことを“私”ということもある。この人はどんな一人称を使ってくるかというのは、ある程度気質から見えてきたりもする。「この一人称はこういう人が使う」というような明確な規定もないと思うが、不思議とそういう風になってくる。不思議なものだ。そう考えると、どうして今その一人称を使っているのか、いろいろな人にたずねてみたくなる。

 

 私は物心ついたばかりくらいのとき、周りの男の子たちがそろって“俺”を使い始めたため、それにならって「男はこっちを使うべきなんだ」と“俺”にした記憶がある。(なぜか残っている私の数少ない幼稚園児の時の記憶だ。) 少なくとも中学生くらいまで“僕”を使う男子が周りにほとんどいなかったので、いまや“僕”は絶滅したと考えられていた。少なくとも私の中では。

 

 大人になるにつれ“僕”が現存することも確認した。そうして何の疑いもなく“俺”を使ってきた私だったが、あるときからだんだん性に合わなくなってきていると感じ始めた。理由としては、一般的に言う「男らしさ」があまり好きではないのだ。(こういうのは曖昧過ぎてはっきりは定義できないが、剛柔の「剛」みたいなイメージだろうか。)

 

 そうして私は一人称をどうしていくべきかという問題に直面している。“俺”をやめて“僕”を使ってみてはと思ったが、まだこれだとジェンダーの枠組みから外れていない感じがしてどうもやりきれない。それなら“私”はどうかと考えるが、どうも周りから見たときの違和感を生みそうだし、自分でもそのような違和感を感じてしまう。下手をするとかしこまっている感じもなくはない。そうして無色透明の“自分”になったりすることもあるが、何となくそれはデフォルトとしては使えない気もする。

 

 そんなわけで結局、各種一人称がランダムで出てくるというのが現状だ。それにしても、一人称の世界は奥が深い。自分の使っている一人称についてみなさんも考えてみてはどうだろうか。

 

 なお、本ブログでは、統一して“私”を使わせていただくこととする。