雑音日和

教祖になるのが夢です。

贅沢な多忙

 なぜだかよくわからないけれど、なんというか、忙しい。普通の社会人よりも遥かに余暇は多い方だと思う。では世間一般の人は、自分のために使う時間なんてないに等しいのではないか。そうでないと辻褄があわない。

 

 これまで常態化していた積ん読問題に加え、ゲームまで積みそうなところまで来ている。明らかに自分のキャパシティが好奇心に追いついていないのだ。強欲で贅沢な悩みともとれなくはない。しかしそれほどまでに世の中はモノだとか情報だとかに溢れすぎている。期待に溢れすぎている。「多様な価値観」に溢れすぎている。

 

 最近はネタバレサイトや映画の早送りでコンテンツを消費した気分になる人も増えたという。当事者にとっては理にかなっていて当たり前となっているだろうが、私からすれば申し訳ないが健全には見えない。どうしても割り切ることができないのである。とりあえず気になるもののあらすじをサクッとおさらいするという。まるで文学史の授業か何かのようなことをするだけで、その作品について知っていると言い張るのは、どうしたって後ろめたさしかない。作中の間が織りなす絶妙な表現を見たり、作品の中に入って感情をともにすることができないと、どうしても栄養を食道を介さずに直接体内に注入しているようで、どうにも作品を知った気になれない。

 

 しかし時は有限である。いくらモノが溢れまくっているという事情があっても、1日が24時間であるというルールは変更することができない。そこでもう一つの流派ともいうべきものが存在する。溢れたモノの中から本当に必要なものだけを選び出し、残りは全部バッサリ切り捨てる。いわゆるミニマリズムとかいうものだ。これで大量のモノをわざわざ縮小しまくった果てに、大切なところを失ってしまうむなしさは回避できる。それでも私はこちらの門にも入ることはしないだろう。無駄という無駄をそぎ落とし、シンプルで無機質になった状態に、それ以上の深みは感じられない。ドンキホーテ店内だとかアジアの雑踏みたいな、掘れば掘るほど何かが出てきそうな、所狭しといろいろなものがぎゅうぎゅうに詰められて、一つの世界を作っているような、そういう場所に心惹かれる自分がいる。空間には遊びがなければならない。

 

 あふれかえるモノたちの進撃の中で、満足感を守って生きていこうとする人々は、それぞれ逆方向に二つの道を切り開いた。だが、そのどちらにも耐えられずない人は、空虚を感じながら、日々、本を読まずに重ねるのである。